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九谷焼を美術館や図録で鑑賞するための解説を行っています

 能美九谷の歴史 主な項目
  1.伝統の画風
  2.能美地方の製陶業
  3.活躍した陶画工
  4.活躍した陶器商人

3.活躍した陶画工

 陶画工の居たところは、現在の佐野町、寺井町、そして小松市を中心に広範囲に広がり、斎田伊三郎、九谷庄三、松本佐平の門下や流れをうけたもの、彼らの影響を受けた独立した陶画工たちがいました。
 佐野、寺井では、これまでの伊三郎、庄三の門下の陶画工が江戸末期から陶画業を始める者がいて、さらに県内の優秀な陶画工も集まり、その地域で盛んに絵付が行われました。
 一方で、小松の佐平は、伝統的な青九谷風の絵付を復興することに努めたことで、小松の陶画工たちは大なり小なり佐平の影響を受けました。
 明治18年(1885)ころ、能美地方には、専業陶画工が67人、兼業陶画工が21人いたといわれましたが、明治30年代から40年代にかけて、一定しないものの、その数は300人前後に増加したといわれます。
 ただ、貿易九谷が横ばいにつれ、明治末期頃から、能美地方の外から来ていた陶画工には郷里へ帰る者が出たり、また高い技術を持った陶画工は神戸、京都、名古屋、横浜の製造業者に招かれるなど、大勢の陶画工は能美の地から離れていきました。大正の終わりには能美地方の陶画工の数は金沢からの転入者数名を加えても30名に満たない数までに減少し、このため九谷焼の生産も勢いをなくしていきました。

【主な陶画工】
① 斎田伊三郎 系
 亀多山月 道本七郎右衛門 初代 橋田与三郎 西本源平 初代 富田松鶴
 三輪鶴松 東文吉
② 九谷庄三 系
 初代 武腰善平 中川二作 二代 本多源右衛門 二代 武腰善平 初代 武腰泰山
松本佐平
④ 松本佐平 系
 初代 宮川永福 秋山駒次郎 初代 松本佐吉
⑤ 独立系
 石田聚精 小酒磯右衝門 沢田南久 三代 川尻七兵衛 八木甚作 石田一郷
 福山虎松 笠間竹雪 初代 畑谷関山 越田雪山 高田嶺山 四代 川尻七兵衛
 森 久松 島崎玉香

斎田伊三郎 系

 佐野村の陶画業は、天保6年(1835)、斎田伊三郎に始まりました。伊三郎が明治元年(1868)に亡くなりましたが、それでも、明治初期、佐野村には専業画工が18人、兼業で7人がいたといわれます。伊三郎の開業が早かっただけに伊三郎に育成された陶画工がすでに多くが独立して陶画業を開業していました。明治20年(1887)頃、貿易の最盛期を迎えても、佐野村では国内向の仕事が主体であったので、陶画工の数に大きな変化はなかったといわれます。主な陶画工は次のとおりです。

亀多山月(平次郎)  弘化元年(1844)生、大正5年(1916)歿
 亀多山月は、安政元年(1854)、11才のとき、伊三郎の門下に入り、赤絵細書 を中心に修業し、文久2年(1862)、独立して陶画業を始め、山月と号しました。
 独立しても伊三郎門下の陶画工として研鑽を続けたといわれます。明治8年(1875)頃、亡き伊三郎一門の頭取格として、初代 橋田与三郎らと図り「佐野画工15日会」を発足させ、毎月15日には作品合評の会を開いて、それぞれの研究を話し合うことで後進の育成にも努めました。中でも赤絵の元になる朱の発色に研鑽を積むなど、顔料の研究に熱を入れました。
 自らの制作活動の外に、当時の勧業開発事業であった九谷焼の振興と、陥りがちな粗製の排除にも努めました。また、納富介次郎や荒木探令を招くように郡に働きかけ、陶画工たちに画法の改善を促し、技術水準の向上を図りました。
 赤絵細描や金襴手を得意とし、七福神図や百老図に傑作があります。一方で、色絵竹林人物画のように青彩を加えたものもあって、山月独特の作品を残しました。
 門人に亀田惣松、玉川清右二門、富田太郎松、亀田権次郎らがいました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

道本七郎右衛門   天保13年(1842)生、大正9年(1920)歿
 道本七郎右衛門は、伊三郎に陶画を学び、明治3年(1870)、独立して佐野村で陶画業を始めました。
 伊三郎の赤絵網の手を得意とし、また飯田屋風の画風で竹林七賢人や金魚の絵を描きました。当初の作品はすべて和絵の具を使いましたが、後に洋絵の具も使いました。
 画風はその子 七左衛門などによく伝わっているといわれます。
(図録「斎田道開展」を参照してください)

初代 橋田与三郎   嘉永4年(1851)生、大正15年(1926)歿
 初代 橋田与三郎は、伊三郎の門に入り、8年間修業して、赤絵細書をよくしました。
 亀田山月らと協力して「佐野画工15日会」を毎月催し、みずから初代会長となり、徒弟から絵付を始めることを奨励し、試験制度を作るなど後進の育成に当たりました。
 群役所の招聘を受けた納富介次郎や荒木探令を講師に、陶画図案や顔料使用法の研究などを行いました。
 門弟に三輪鶴松、北村与三松、古西幸雄、西野仁太郎らがいました。
 初代の画風は門弟の二代 橋田与三郎に受け継がれました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

西本源平   嘉永2年(1849)生、大正元年(1912)歿
 西本源平は、幼くして陶画工の道を志し、慶応元年(1865)、17才で独立し、「道開風」の作品を作りました。64才で歿するまで赤絵の着画一筋に活躍しました。
 伊三郎の歿後、伊三郎の多くの門弟たちの面倒を見たといわれ、源平の門人には樋口与三松、吉田八次郎、長田亀松、中村三松、若林市松などがいました。
(図録「斎田道開展」を参照してください)

初代 富田松鶴(三郎平)  弘化4年(1847)生、大正14年(1925)歿
 初代 富田松鶴は、慶応3(1867)年、陶画業を始め、松鶴と号しました。
 伊三郎の赤絵網の手に特に優れ、赤絵小紋の平鉢、蓋物、湯呑に傑作を残しました。
 松鶴の画風は二代 松鶴に受け継がれました。
(図録「斎田道開展」参照してください)

三輪鶴松   元治元年(1864)生、明治44年(1911)歿
 三輪鶴松は、初代 橋田与三郎に師事し、赤絵細描の技法を修めました。
 鶴松は、雪輪、バラ絵の画風を始めました。貿易用の大物にも取り組み、細字を取り入れた作品も多くあります。盃や湯呑の内側に漢詩を書き、外側に雪輪を描いてあればこの人の作品であるといわれるほど得意でした。
(図録「斎田道開展」を参照してください)

東 文吉    安政元年(1854)生、大正2年(1913)歿
 東文吉は、「道開風」の赤絵細書の名手といわれ、着画の改善に尽くしました。
 日用雑器にも優れた絵付をしたので好評を得たといわれます。

九谷庄三 系

 寺井村の絵付の本流は九谷庄三の工房でした。天保12年(1841)、庄三が絵付工房を開いたその時に始まり、安政2年(1855)以降に門弟をとるようになりました。最初の門弟は初代 武腰善平でした。善平からその弟子一門に継がれ、その後、「庄三風」を起点にして、時代の要請に応えた独自の作風を生み出しました。特に評判を得たのが、初代 善平の切割の技法、初代 泰山の田舎山水、三代 善平の彩色赤絵でした。
 明治15~16年頃、庄三の工房に集まった陶画工は300人を超えたといわれます。産業九谷の生産が明治20年(1887)を境に横ばい状況に移ると、国内に販路を拡張してそのままの態勢で絵付業が続けられましたが、明治末期の頃からは寺井村の外から来ていた塔画工には郷里へ帰る者、神戸・京都・名古屋・横浜で九谷焼画工の技術が高く評価され招かれる者もいて、村から転出した陶画工が多数に上りました。大正時代の終わりには30名に満たない数に減少したといいます。主な陶画工は次のとおりです。

初代 武腰善平  天保14年(1843)生、明治40年(1907)歿
 初代 武腰善平は、12才で九谷庄三の門に入りました。九谷庄三の妻 しづは善平の姉に当たることから、庄三から格別の薫陶を受けました。
 貿易九谷が盛んになってきたころ、庄三が中心的存在であったので、その内弟子に当たった善平は非常に多忙で、庄三に代わって着画することもあれば、庄三の仕事も手伝わされることもあったといわれます。
 庄三の門下に12年間、一時は庄三の養子にとまで推されましたが、慶応元年(1865)、独立して寺井村で陶画業を始めました。
 それからも、朋輩の笠間秀石、中野忠次らとともに庄三を助ける一方で、絵付業に専心し、「庄三風」の充実発展に努めました。庄三の弟子300余人のうち第1人者として自他ともに認められるまでになり、号を廣布洞といいました。
 庄三の亡きあと、「庄三風」を継承する第一人者として、後継を育成し、また子の二代 善平、泰之(初代 武腰泰山)をはじめとする武腰一門の総師として活躍しました。
 能美市有形文化財(工芸品)「彩絵草花文様大平鉢」

中川二作   嘉永3年(1850)生、明治36年(1903)歿
 中川二作は、元治元年(1864)、14才のとき、九谷庄三に入門しましたが、工房は昼も夜も仕事があって寝食を忘れて励みました。窯焚きともなればその準備から火入れ、色見、窯止めまで行ったといわれます。そして、若いころ、金沢に出て狩野派の佐々木泉龍に日本画を学び、またドクトル・ワグネルが来県した際、直接指導も受けるなど陶画の研究に励みました。そして、明治3年(1870)、独立して陶画業を始めました。
 作品は、庄三から薫陶を受けただけあり、花鳥、人物、山水に託して自然の美しさを表現し、精緻を極め美しく仕上げたもので、今もなお気品高いと評されています。制作に当たっている時は、1本1本の線引きにも息をこらし全力を傾注し描いたといわれます。
 そして白磁彩描、泥金描の法、顔料精選法、陶画摩擦にメノウを使うことなど技法の開発改良に尽くしたその功績は大きかったといわれます。
 明治10年(1877)ころから徒弟の養成も始め、吉田甚助、秋田永松、吉田升松、吉田伊三郎、中川俊龍、中川義雄、中川作太郎、吉田太一郎、岡田宗一、山田重芳、林契雄、北出治助、高田作太郎、秋山忠義、小西市松、北中乙松、角谷吉松などの大勢が養成されました。
 能美市有形文化財(工芸品)「金襴ねじり小紋平鉢」

二代 本多源右衛門   弘化2年(1845)生、明治39年(1906)歿
 二代 本多源右衛門は、初代 源右衛門が九谷庄三を補佐したのに対し、綿野商店の貿易物の大作を作りました。
 一貫して庄三の彩色金欄を描き独自の画風を作り上げました。作品の裏銘に本源堂の記名を残しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

二代 武腰善平   明治6年(1873)生、昭和10年(1935)歿
 二代 武腰善平は、幼少から、父 初代 善平に陶画を学び、庄三の彩色金襴、赤絵の細書など寺井九谷の技法を維持し、その伝承に努めました。
 特に繊細な筆致で描かれた花鳥、山水を得意としました。
 また大正年間(1920年?)から楽焼を始め自作の烙陶を使って楽しんだといわれます。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

初代 武腰泰山(泰之) 明治12年(1879)生、昭和21年(1946)歿
 初代 武腰泰山は、初代 武腰善平の三男で、幼少の時から父に陶画を学び、実際に陶磁器に上絵をつけるようになってから、泰山と号しました。
 作品は花鳥、山水、人物を繊細な運筆で巧みに描き、赤絵、金さしなどの手法を織り込み、また和洋の絵の具を使いわけるなど、上絵で描けぬものがないとまでいわれた陶画工でした。
 画風には「庄三風」の柔らかさと深みがあり、その落ち着いた感じは誰をも引き込むような魅力があるといわれます。特に、割取で描かれた通称「田舎山水」という田園風景は彼の作品の右に出るものがなかったといわれます。
 門人には小松の二木紫石、三代 川尻善平のほか、中島珠光も幼少のころ手ほどきを受けたといわれます。
 能美市有形文化財(工芸品)「色絵田舎山水図大皿」

松 本 佐 平   嘉永4年(1851)生、大正7年(1918)歿

[陶歴]
 嘉永4年(1851)、江戸末期の名工 松屋菊三郎の長男として生まれ、幼名を菊松といい、8才のころから、父に陶画を学びました。
 *父 菊三郎は江戸末期の再興九谷における蓮代寺窯、松山窯での上絵付の名工で、明治元年に松本に改姓しました。
 明治元年(1868)、18歳のとき、八幡村の窯を受け継ぎ、窯の親方として働き続け、明治5 年(1872)、家業の陶画業を継ぎました。
 明治8年(1875)、外国商館を通して輸出し始め、翌年に政府の推薦を得てフィラデルフィア万国博覧会へ最初の出品を行いました。
 明治9年(1876)から4年間、金沢の画家 徳田寛所から南画を学び、陶画の改良に腐心しました。
 明治10年(1877)、第1回内国勧業博覧会、外国での万国博覧会など内外の博覧会等に出品して数多くの賞碑を受けました。その後の万国博覧会への参加は、明治22年(1889)のパリ、同26年(1893)のコロンブス、同33年(1900)のパリ、同37年(1904)のセントルイス、同43年(1910)のブラッセル、同44年(1911)のローマと続き、積極的に参加をしました。
 明治11年(1878)、寛所より「松雲」の号を拝領し、屋号を「松雲堂」と名付けるように勧められ、「松雲堂佐瓶」の裏銘の作品を作るようになりました。他にも「松雪」の号を受けました。このときが、佐平が窯元としてまた陶画工として活躍し、その後「松雲堂風」という新たな作風を生み出す始まりでした。
 明治15年(1882)、能美郡同業同盟会を作り、九谷焼の粗製濫造を防ぐことに尽くし、その施策として陶画工の進級試験制度を作り、陶画工の技能の向上を進めました。また松原新助が素地製品の統一化を図ることによって素地の供給を円滑にしようとの提唱に協力しました。
 明治18年(1885)、金襴手の中に割絵を取り、そこに花鳥、山水を極細の線の金彩で細描する画風を好み、制作をよくしました。
 明治20年代(1887~)、金沢、神戸、大坂、京都とつぎつぎに松雲堂の支店を設け、神戸支店から輸出を始め、九谷焼の中でも高級品、美術品とされる制作品を、外人バイヤーを通し直輸出しました。
 明治22年頃(1889)、赤絵を製造しなくなったといわれ、新しい画風を研究し続け、明治26年頃(1893)、「松雲堂風」という作風を確立しました。
 明治36年(1903)、30年代の経済恐慌のあおりを受けて松雲堂を一時閉じ、父 菊三郎が親しくしていた、金沢の谷口吉次郎の経営する谷口金陽堂に長男 佐太郎とともに移りました。
 明治41年(1908)、佐太郎が古九谷研究に情熱を傾けて、直接陶画を業としなかったので、養子を迎えて松雲堂を継がせました。この養子となった人が初代 松本佐吉で、その後、青九谷の名工といわれた人でした。
 明治43年(1910)、ブラッセル万国博覧会に個人で参加し、帰国後、「実視察報告書」を刊行しました。それは海外との比較、将来の産業の方針、海外産業界レポート、などをまとめたもので、問屋、工場経営者、職人、役人などに頒布しました。
 大正2(1913)年10)、陶画業を引退し、41年間にわたり、九谷焼に関し従事することを終えました。

 松本佐平は、陶画工としての姿勢とは別に、西欧の生産方式を学び、陶業の工場を建設し、各部門の人材育成を軌道に乗せるなど、産業九谷の発展に貢献しました。

[佐平の描いた下絵]
 小松市立博物館所蔵『松雲堂資料』には、「松本佐平」の印や名の入った図案のほかに、「石川縣図案所之印」や「契」の割印がある図案の中には、当時の図案所が佐平に図案の制作を依頼し描かれたものもあると述べられています。
 明治11年(1878)の佐平作『金襴手官女奏楽図双耳花瓶』(石川県立美術館所蔵)の下絵と思われる図案が2枚あります。この原図は『金玉画府』という絵手本にある「仇英筆八仙女」で、佐平がそれを再構成して描いた図案を作品の制作に用いたと考えられます。この図案には「松本佐平」という朱印があります。
 また 明治42年(1909)作の『色絵瑞花鳥図大花瓶』(小松市立博物館所蔵)の図案として「青九谷磁器/壺図案 」「明治四十二年九月二十三日」「小松町/松本佐瓶作」という書き込みの図案があります。窓枠の外の文様を省略した以外は作品そのままで、作品と図案に描かれた花瓶の大きさはほぼ一致します。
[佐平の銘]
 佐平が用いた銘には複数ありますが、「松雲堂/左瓶造」と「金陽堂/左瓶造」が最も信用度が高いといわれます。二つの大きな違いは、“どこの工房で製造したか”によるもので、「金陽堂」は、佐平の経営していた「松雲堂」が経営難に陥り、佐平が陶画業に専念するようになってからの活動の場でした。そして、いずれも「左瓶造」とあるため、明治11年(1878)に「左瓶」の号を受けてから作られた作品であることがわかります。
 松雲堂を含めた号には、他に「九谷/松雲堂製」と「松雲堂/左瓶冩」があります。後者は佐平が写した作品の銘ですが、「造」と「冩」を使い分けている点に注目されます。明治22年(1889)頃、佐平の写しは好評を博したため、模作を盛んに製出する職人が出てきて粗製乱造されました。佐平は本歌と写しの区別を明確にする必要を感じたと考えられます。ただ、明治41年(1908)年以降の模作作品に「左瓶」のみを記銘したものがあります。
石川県立美術館収蔵品データベースから検索してください)

松本佐平 系

 松本佐平の門下であったか、松雲堂に在籍した主な陶画工はつぎのとおりです。

初代 宮川永福(英吉)   慶応3年(1867)生、昭和11年(1936)歿
 初代 宮川永福は、加賀藩士の家に生まれ、幼少の時から金沢の岩波玉山に陶画を学び、修業したのち、松本佐平に招かれて松雲堂の職長を務めました。
 青九谷、赤絵の技法で繊細な特色のある画風を伝えています。裏銘のある作品は少ないといわれますが、永福(初代)と号しました。

秋山駒次郎     文久3年(1863)生、?歿
 秋山駒次郎は、加賀藩士 飯森正道の次男として生まれ、明治8年(1863)、勧業試験場に入り、須田菁華らと共に陶画を学び、明治13年(1880)に卒業しました。その間に旧藩士 薄井家に養子として入りました。
 さらに絵画を見本修理に学び、藤岡岩花堂(金沢九谷の中で優れた作品を制作した窯元)にも従事しました。
 明治16年(1883)、勧業試験場の教諭であった松田与三郎の紹介により、松本佐平の松雲堂に入り、佐平の松雲堂が閉じるまで、職工長として活躍しました。その間の明治21年(1888)に佐平の義弟 秋山平作の女婿となり、秋山の姓に変わりました。(その2年前に薄井家を養子離縁しております)
 明治41年(1908)、佐平は松雲堂を一度閉じましたが、佐平の養子となった初代 松本佐吉がこれを継いだので、駒次郎はその工場長となり、自らも優れた作品を制作しました。
 酔月と号しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

初代 松本佐吉    明治17年(1884)生、昭和17年(1942)歿
 初代 松本佐吉は、若くして松本佐平に陶画を学び、明治41年(1908)、佐平の養子になって松雲堂を継ぎました。
 九谷五彩を駆使して青九谷の美しきを創案し、古九谷風、吉田屋風など九谷焼初期の絵柄と色調の再現に情熱を注ぎこみました。こうして明治九谷において青九谷の巨匠とまで称されるまでになりました。
 作域と作風は純粋にオリジナルな創作を本命とし、古九谷をより正確に模写することを工夫しました。
 小松市有形文化財所蔵品「模古九谷鉢」

独立系

 能美地方には、明治期に、独立して陶画業を営んだ者が、文久2年(1862)に開業した、沢田南久の系統の陶画工も入れると、10数人いたといわれます。主な陶画工は次のとおりです。

石田聚精(平蔵)   弘化元年(1844)生、明治25年(1892)歿
 石田聚精は、北市屋平吉の養嗣子となりました。北市屋は天保4年(1833)に小松で窯を開き、町人からの需要に応じて陶磁器を制作しました。
 平蔵は、北市屋で働くうち、上絵彩色に非凡の才を発揮し、青九谷の磁彩を得意とするようになりました。
 作品は、吉田屋窯に似て濃密な青九谷系の着画に特色があり、裏銘を附したものはないものの、北玉堂聚精の号を箱書きしたものがあります。九谷焼の貿易が盛んなとき、平蔵の力作も海を渡ったと考えられます。

小酒磯右衝門    天保4年(1833)生、明治33年(1900)歿
 小酒磯右衝門は、幼少のときより技芸に優れ、村内の寺の住職に習字を教わり、斎田伊三郎の佐野窯で3年修業して、さらに九谷庄三の門も叩きました。
 安政5年(1858)、郷里の高堂村で陶画を業として独立し、翌年、工房を開きました。
 伊三郎と庄三の両巨匠と交流して、それぞれの特徴をよく取り入れて独自の画風と色調を編み出しました。これが明治・大正期の「高堂絵付」とよばれるものでした。
 「高堂絵付」の特色は、写生風に文様を配し、構図においては雄大で山水図を取り入れ、気品を感ずるものが多くあります。緑を基調とした画風は重厚で、耕作の図や老松に鶴の巣ごもりの図などの名作が伝えられています。これらの絵付は細密な手描きに本金をつけたもので、特に金ふりに独特の巧みさがあり、「高堂絵付」は好評を博しました。
 磯右衛門には、門弟のの第一号である石浦伊三郎、彼に師事した田中英亮をはじめ、中村伊三松、高伊之吾、大坂由松、吉田庄作、住田栄作、住田伊三松、橋爪豊作、荒木長爾、北島文作、上田孫作、住田甚作、本田儀作、北村外書、住田与三松など多くの者がいました。

沢田南久(久三郎)    弘化2年(1845)出、大正11年(1922)歿
 沢田南久は、安政3年(1856)、12才のとき、陶画業をしていた叔父の久四郎に入門しました。懸命に修業している最中、叔父が亡くなりましたが、諸大家の画図、絵本を収集して独学し、3年の後に陶画業として独立しました。南久と号しました。
 文久元年(1861)、自宅を絵付工場にし、また生徒の養成に当りました。
 慶応2年(1866)、当時盛んに制作されていた「庄三風」だけでなく、金沢の林 所平、高岡の蓮花寺利三郎を招くなどして画風の改良に腐心し、実力を身につけました。
 その後も師を求めて研修を続け、明治13年(1880)に岸 光景に、明治15年(1882)年に納富介次郎に陶画を学び、明治17(1884)年にドクトル・ワグネルに築窯法の指導を受けました。特に和絵具の改良についてドクトル・ワグネルの指導も受けて、新しい顔料を開発し、それは現在も使われている顔料の基礎となりました。
 画風は、和絵の具と洋絵の具を使い、緑、紫、黄を好んで用いて、綿密に描かれた花鳥は寺井九谷の基礎となった色調を帯びていました。南久の画風は笠間竹雪・末川泉山と受け継がれて、沢田南久独自の流れも作ったといわれます。
 能美市有形文化財(工芸品)「色絵藤に鶏図花生」

三代 川尻七兵衛(喜平)  天保14年(1843)生、明治37年(1904)歿
 川尻家は代々、七兵衛を名乗ってきました。初代 七兵衛は、文政元(1818)年に金沢から若杉に移ってきた士族でした。同家の文書に、初代 七兵衛は、加賀の陶祖といわれた本多貞吉が歿した後、文化年間の末期か文政年間の初めに、時の藩公が陶窯の廃棄をいたく惜しまれ、若杉窯の再起のために金沢より招かれ、若杉窯では出納役を担当したと書かれています。
 二代 七兵衛は、蓮代寺窯にて松屋菊三郎、粟生屋源右衛門らとともに絵付に励み、その後小松に出て陶画業を始めました。
 三代 七兵衛(喜平)は、幼少のころに北市屋兵吉から陶画を習い、そして慶応2年~明治元年(1866~68)、弟の嘉平と共に山代の永楽和全から陶画を修業しました。川尻家の文書によれば、明治4年(1871)に若杉村の職場に陶器窯を設け、職人を雇って陶画業をしたと記述されています。
 明治6年(1873)、弟 嘉平と力を合わせて神戸に支店を設け、九谷焼の貿易を始め、さらに小松にも上絵窯を築いて陶画業に専念しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

八木甚作    嘉永2年(1849)生、明治39年(1906)歿
 八木甚作は、文久3年(1863)、15才のとき、市川嘉右衛門に陶画を学び、後に金沢に出て内海吉造の下で画風の改良を研究し、ほかにも書、日本画を学びました。
 明治6年(1873)、粟生村に帰り、窯を据えて、開匠軒と称しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

石田一郷(久光)   慶応3年(1867)生、昭和12年(1937)歿
 石田一郷は、京都で田中一華に日本画を学び、荒屋に戻ってから日本画を業としていましたが、九谷焼の絵付業を始めました。
 作品は、日本画家らしく、染付のものが多いのが特色です。「だるま」を得意としました。昭和3年に善光寺の智栄上人との合作の花生には染付で「だるま」が描いたものがあります。
 門人には本田儀作、上田孫作、住田甚作、野村仁太郎などがいました。

福山虎松   明治元年(1868)生、昭和22年(1947)歿
 福山虎松は、名画工といわれた石田平蔵に師事し、古九谷と吉田屋窯の真髄を極め、中でも古九谷写しにおいては本歌と見間違えるばかりの作品を作りました。

笠間竹雪(市太郎)   明治4年(1871)生、昭和9年(1934)歿
 笠間竹雪は、明治18年(1885)、15才のとき、幼い時から絵を好んでいたことから、陶工になるため沢田南久の門下に入りました。
 入門の時から、聡明で進歩的な気性を持っていて先人の九谷庄三を崇敬し、南久の好きな日本画についても深く傾倒しました。そして県立工業学校教授 鈴木華邸の画風を慕い、さらに上京して高島北海に学びました。こうしたことから勇健な筆致と華麗な画風で日本画に多くの作品も残しました。
 明治36年(1903)、寺井村に工房を開いて陶画に専念し、余技として日本画も描き作品を残しました。竹雪と号しました。
 井出善太郎の経営する絵付工場の顧問として名をとどめました。善太郎の勧めで「緋色釉龍文花瓶」を農商務省主催美術工芸展(農展)に出品し入賞し、県の買上げとなり世人を驚かしたことがありました。
 門人に、北村与三吉、平田平松、石田常次郎、吉田才幸、高田伝一郎、梅田梅光、倉田彩幽、末川炭山、松本佐吉、中島寿山、中島珠光ら、後に名匠となったものが多くいました。
 能美市有形文化財(工芸品)「色絵虎図大平鉢」

初代 畑谷関山(常吉)   明治3年(1870)生、昭和13年(1938)歿
 初代 畑谷関山は、若年期に大聖寺で上絵付業を営み、関山と号しました。のちに名古屋へ移って輸出物の着画をしましたが、帰郷して小松で九谷焼の上絵付を始めました。
 能美九谷の陶画工たちと多少異なり、作品には、柿右衛門や古伊万里の写し、赤絵細描、金襴手、巨匠名匠の写しがありました。これは若年期に大聖寺で修業したことが影響したからといわれます。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

越田雪山(由太郎)   明治5年(1872)生、昭和5年(1930)歿
 越田雪山は、松浦四郎右衛門に上絵付を学び、雪山と号して陶画業を小松で始めました。
 柿右衛門写し、青九谷の絵付に専念しました。

高田嶺山(作太郎)   明治6年(1873)生、昭和9年(1934)歿
 高田嶺山は、父 伝右衛門が文久3年(1863)に焼物窯を寺井大長野村で初めて試みていましたので、10才のころからこの窯場で父の作業を見て作陶を始めたといわれます。後に、金嶋岩嶺に師事して、嶺山と号するようになりました。
 このころ、和絵の具のほかに洋絵の具が盛んに使われるようになっていましたが、相当の研讃を積んで、和洋両絵の具を使いこなすことができたといわれます。また基本になる骨描きに卓抜した巧さがありました。
 画材に絵画風の趣向が用いられ、物語もの、田作り作業図など生活に定着したものが多く、また笠間竹雪、石田一郷、安達陶仙らと交流したことから、個性豊かな作品を残しました。
(図録「鶏声コレクション」を参照してください)

四代 川尻七兵衛(七次)    明治14年(1881)生、昭和24年(1949)歿
 四代 川尻七兵衛は、父に陶画を学びましたが、展覧会などへの出展を好まず、おだやかで丸味のある線の陶画を描きました。赤絵や古九谷風を丹念に絵付し、まろやかな人間味あふれる作品を残しました。
 晩年の作品に「七兵衛」と記銘したものがあります。

森 久松    明治18年(1885)生、昭和18年(1943)歿
 森 久松は、九谷焼の上絵付を業とした森 作平の次男として生まれ、小学校入学の前から父の仕事場で上絵付を手伝い、長じて中川二作の門弟だった秋山忠義から陶画を修業し、のちに県立工業学校の安達陶仙に学びました。
 独立して陶画業を始め、織田甚三商店の貿易九谷を作りました。
 図柄は現代風にアレンジした花鳥図が多くありました。和絵の具を好み、古九谷写しや「庄三風」の作品を作ることが好きだったといわれます。
 常時5~6人の門弟があり、野村石之助、森 一正らもそのうちの一人でした。

島崎玉香(直松)    明治元年(1868)生、大正11年(1922)歿
 島崎玉香は、横浜に出て、山本祥雲に師事して陶画を学び、明治36年(1903)年、寺井で陶画業を営み、さらに九谷焼の販売業も行いました。
 作品には日本画にみるような優雅で流暢さがあり、深みもあって、花鳥、山水、人物などを巧みに描きました。ただ、青九谷の絵の具は使わなかったといわれます。
 作品に「朝日製」と裏銘をつけ、四国方面に多く販売されたといわれます。

4.活躍した陶器商人へ

 九谷焼の名工
 
 
 
 
 九谷焼の諸窯